おもちゃたちの居場所

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相生町で「木のおもちゃと手仕事屋かばんねこ」というおもちゃの専門店(とレンタルスペース)をしております、高橋美樹と申します。記事は2回め。ぜひぜひおつきあいくださるとうれしいです。

さて、前回は、かばんねこのおもちゃ屋への道「いいおもちゃとの出会い編」を書かせていただきましたが、今度は私がそのおもちゃたちで、どんなふうに子どもと育っていったかをお話しようとおもいます。

今回は、「おもちゃたちの居場所」のことです。

 

おもちゃ箱がなかったことで…

うちにはおもちゃ箱というものがありませんでした。空いていたこたつ机と使っていないテレビ台があったので、その上に、1歳さんのおもちゃを並べていました。広い机や台の奥側のスペースが、おもちゃたちの場所。手前のほうが、そのおもちゃで遊ぶスペース。今思えば、これが良かったのだなと思います。

今でこそ私は、「子どものおもちゃは“おもちゃ箱”という、ただモノを投げ入れるだけの箱にぼんぼん入れるのはいけませんっ! 本棚のような棚の、子どもの目の高さまでの位置に、積み木系、線路系、クルマ系、人形系など仲間のおもちゃごとに並べて、“いつでも見えるように”、“あっと思ったらすぐに使えるように”、“片付けがしつけでなく生活習慣になるように、それぞれのおもちゃの場所をかならず決めて”置きましょう」みたいなことを言っていますが、そのときは全くなんにも考えなくても、使っていないこたつ机とテレビ台という、おもちゃ棚 兼 あそびスペースという、すばらしいおもちゃの置き場環境が用意されていたのです。偶然ですが、今思い返すとほんとうにありがたいことでした。

 

見えないものは「無い」もの

1歳さんがトコトコとそのスペースの方に行くと、ずらりと並んだおもちゃたちは、すべて見えるわけです。おもちゃ箱の底の方に隠れて見えなくなっていたり、おもちゃ箱のあっちとこっちにパーツが分かれて使いにくくなっているわけでもありません。ささっと「どれであそぶか」決めて、面倒なく手前の遊びスペースにひっぱってこれるのです。

子どもにとっても大人にとっても、見えないものは「無い」もの。わたしも、食器棚の奥深くに埋蔵されている食器は、スゴイ意思を持って発掘しないかぎり、使おうなんて思ったことはありません。子どもも同じです。いつでも見えて、いつでもさっと使えれば遊ぶかもしれないのに、見えなくて、取りづらければ、遊びません。そもそも見えなければ、その存在まで忘れています。飽きたんじゃなくても!

また、おもちゃが整理されて置いてあって、いつでも目に見えて取りやすいということは、「コレにアレを組み合わせたら、面白い」「ココにアレを使ってみたらどうだろう」そんな遊びの深まりにも、一役買ってくれたと思っています。積み木と、ビーズと、動物フィギュアと、布…、居間にいろんな素材を使った大きな街が出来上がっていたときは、ほんとうに壮観でした。

 

「片付け」は教えなくても、身につく

そして、片付け。それについてはとにかく、片付けという概念のない小さい人に「片付けなさいー!」と言ってもしょうがないので、もう使わないかな? というものは、「もともとそのおもちゃがあった場所」にわたしが戻していました。その姿を、1歳さんは見るとはなしに見ていたのでしょうね、同じようにする姿が、徐々に見られるようになりました。その過程で、「これは入れ物に入れて整理したほうが出しやすいし片付けやすい」「これはこっちの仲間に入れたほうが使いやすい」そういうことに、子ども自身が自分で気づけていったように思います。子どもに教えて、やらせなくても、モノの場所を決めて、使ったものをそこに戻していく姿を見せていっただけ。ですが、教えこみ、やらせる「しつけ」をしなくても「生活習慣」として片付けが子どもの身についていくのだという気づきは、びっくりするくらい楽ちんな副産物になりました^^

 

 

ライター: 高橋美樹

あそびとおもちゃの専門店「木のおもちゃと手仕事屋かばんねこ」 店主

「おもちゃ」を通じて赤ちゃんからお年寄りまでの教育・福祉・医療にかかわる「おもちゃコンサルタント」の資格をもつ

日々笑い、また、日々子育てに悩む2児の母。